インターネット、身体性との付き合い方

インターネットには顔の見えない空間が広がっている。その空間を表現するときに「全員が覆面を被った」とする人と「全員が肉体を脱ぎ捨てた」とする人がいる(とする)。両者は写真のネガとポジの様に似ている。僕はその写真に「インターネット、身体性との付き合い方」とでもタイトルをつけてアルバムにしまおうと思っている。


どちらの立場もまず初めに身体がある。覆面を被せるべき身体が、脱ぎ捨てるべき身体が。インターネットは表現から身体性を切り離す。問題はその切り離し方を各々がどうとらえているかだ。


覆面を被った人には全ての人が覆面を被ったように見える。そこで交わされる言葉は、身体性の伴わない戯言だ。覆面を脱ぎ捨てて同じ言葉が同じように響くか、いや響かない。なぜならその言葉と身体は相容れないからだ。


肉体を脱ぎ捨てた人には全ての人が肉体を脱ぎ捨てたように見える。そこで交わされる言葉は、身体性の伴わない本音だ。肉体を被って同じ言葉が同じように響くか、いや響かない。なぜならその言葉と身体は相容れないからだ。


ほら、ネガとポジ。同じ構造なのだから、当然同じ構文で書くことが出来る。しかし二人のインターネットでの振る舞いは明らかに違った表れ方をするだろう、問題は明らかに違った表れ方をするだろう。
普段は言わない戯言が、インターネットでは口を衝いて出る。インターネットでは言える本音が、普段は言葉に出来ない。身に覚えが無いとは言わせない。そんな時、心は痛む。


もちろん僕らは、この二つの極の間を揺られる振り子だ。時によってどちらかの側に偏った振られ方をし、人によって異なった揺れ方をする。だから自分はどちらの側の人間なのかについて考えるのは無駄だ。僕らはどちらにでもなりうる。


身体性は逃れることの出来ない呪いだ。毎朝、鏡を覗き込むたびに刻まれる印だ。王子様だって蛙になってしまう。もうちょっと太っていれば、痩せていれば。背が高ければ、低ければ。鼻が高ければ、低ければ。表情豊かだったら、鉄面皮だったら。もし男だったら、女だったら。学歴が高かったら、低かったら。自分を見つめ直すたびに、僕らは今のままでは響かない言葉の多さを知る。


鏡を見るたび僕は思う。もうちょっと筋肉が付いていたらなぁ。もうちょっと唇が薄かったら。もうちょっとキリっとした表情は作れないんだろうか。買い物にいくたびに思う。自分に似合う服ってなんだろう。歳相応って、無難って、なんだろう。どこで服を買えばいいんだろう。どうしてセレクトショップで買った服を着ている30手前のご近所さんはダサいのに、同じ服を着ている後輩はオシャレなのだろう。街を歩くときに人の目が気になる。カラオケで歌うときに自分の声のか細さが気になる。服を脱いだ時に漂ってくる、自分の腋の匂いが不快だ。胃が弱っているときには口臭が気になる。ヒゲを剃り忘れた日はソワソワする。一日の終わりに爪が長く伸びていること気づくとモヤモヤする。寝る前に僕は思う。あそこでもうちょっと気の利いたセリフが言えたら。恥ずかしがった時に襟足を触るクセをどうにかしたい。ボーッとした時に指でリズム取るのは不愉快だろうか。文章を書きながら思う。なんでここでこれを言わなければいけないのだろう。接続詞の繋がりは、大丈夫だろうか。句読点のリズム感は、どうだろうか。なんでこの単語を選びとったのだろう。ここを指摘されたら、痛いな。先回りして予防線張るのも、カッコ悪いな。ああ、何を書いているのか分からなくなってきた。


そうして外見とも内面ともつかないものを捏ねくり回して理論武装して、ここにこうして立っている自分だ。そして、そこからは思いも寄らない指摘を受けて、狂喜し絶望し愕然とし、立ち尽くす自分だ。自分の全体が、自分の意識の及ばないような点において評価されることに戸惑い、たじろぐ自分だ。何気ない仕草、不意に見せた表情、意図せず選んだ言葉が批判を受け、賞賛を浴び、報われない自分だ。だからインターネットで覆面を被る、肉体を脱ぎ捨てる。本音とも戯言ともつかない言葉を紡いでいく。