本を貸します。

困ってしまった話。事の発端は、
「〇〇さんみたいな教養を身につけるにはどうしたらいいんですか?なんていうか、哲学的な?」
と言われてしまったこと。真面目な目付きで、冗談めかした口元で。


僕は自分のことを哲学的な教養のある人物だと、、、到底思えない。けれど、彼のキョーヨーだとかテツガクテキだとかが指す意味も分からなくもない。教養だとか哲学的なサムシングだとか文化資本だとかリベラルアーツだとかのそういう空間に、僕は彼より近しい。彼は理系の大学生で、読書をする習慣を持っていなかった。


そういうわけで、何冊か本を貸そうと約束した先週末。まだ果たしていない僕。困った状況。


読書をする習慣を持っていない誰かに本を貸すとはどういう事なんだろう。本を貸すとはどういう事なんだろう?
おそらく、ただ本を手渡すだけでは彼は読まないだろう。そういう前提で考えている。
教養だとか哲学的なものへの憧れがある。そこから出てきた先の台詞だろうと。
何かに憧れている限り、その人はその何かにはなれない、ほとんど確実に。
憧れる何かを彼岸に置いて、此岸から眺める。流れていない河があって先に進めない。本当は地続きなのに。彼から見た河底をブラブラとぼとぼ歩いているのが僕かもしれない。
「お世辞で言っただけなのに真に受けて、押し付けがましい人だなぁ」
なんて読みきれなかった彼が思うのを僕はちょっと恐れている。僕の行いが押し付けがましいのはともかく、自分の言葉をお世辞や冗談だけに限って他の意図を無視するのは惜しいことだと。


ほんのちょっと期待をしてしまう。読むことで彼の中で起こる変革。正しくは10年単位で彼の描く軌跡がほんの少しでもズレたとしてもそれは奇跡と言っていい。現実の着弾点はこんな些事にはまるでブレることもない。


本を貸すのは投資のような行いだ。お金の使う難しさについて前に書いた覚えがあるが、知識の使い方も似た難しさがある。正しく影響を与える困難、影響をうける困難について考えてみる。知らず知らずに影響を与えること、受けることもあると分かったふりをしながら。


約束をしてから会う機会がなかなか無いのでこんなふうに考えてしまう。あっさり渡してあっさり読んでもらえたら僥倖だ。


僕は君たちに武器を配りたい

僕は君たちに武器を配りたい