From the Nothing, With Law.

いつだったか、おそらく先週末、The Indifference Engineが平積みされているなぁ、と思いながら本屋を巡回した。

The Indifference Engine (ハヤカワ文庫JA)

The Indifference Engine (ハヤカワ文庫JA)

伊藤計劃の長編2作を読んだ人に薦めるならこれだろうな、と思う。
おそらく全ての短篇集には、その作家が如何なる題材を物語たらしめようとしてきたのか、その格闘の痕が生々しく残されている。
伊藤計劃のエッセンスはこのThe Indifference Engineに滲み出ていると言っていい。
彼が取り組んできた題材は言ってしまえば「意識とは?」というヤツで、それを現代的なモチーフで、ボンクラなガジェットで、しかし真摯に突き詰めていったことこそ彼の真髄なのだろうと思う。


そんな彼の問題意識はリベットの実験を前提としている。
脳と意識 - http://www.geocities.jp/tillich1965/Performance5.html

人間は行動を起こすとき、頭頂葉に運動準備電位という活動が起こるが(脳内信号指令)、運動準備電位が起こって0.35秒あとに、行為の意志が意識されることが明らかになった。なんと、行為を意図したあと、運動準備電位が脳で起こるのではないのである。なんと逆なのだ! 前意識的に脳内で行為が準備された0.35秒後に、「行為の意志」が意識されのである。

たとえば民法が前提としている意思表示成立の心理的過程は、
動機→効果意思→表示意思→表示行為
と説明されるが、そのような伝統的な説明に対する問題提起として充分な機能を果たす、かなぁ。
かなぁ、という点を設定や語りで更に推し進めて物語として成立させるのがSFの醍醐味である。


そもそも民法がこの問題に対処するとしても取引の安全保護を考えれば良いのである程度分かりやすい。
ところがこれが刑法となると、黒く大きな穴がポッカリとあいており、近寄りがたさと、抗いがたい魅力がある。
刑法体系から読む虐殺器官、というのも面白いだろう。
面白い、とは思うけど言及すると泥沼なので、ミァハに意思能力は認められるのか、とかユルい考えに浸っていたい。
伊藤計劃の作品はそのような近代的人間観に拠るシステムと現代科学が結んだ人間像との間に起きる歪みを映しだす鏡として読み解けるのではないかと思うのでした。
自由意志 - http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%84%8F%E5%BF%97
『マインド・タイム』 - http://www4.ocn.ne.jp/~kameidob/intro/38/mind_time.html

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

刑法 第2版

刑法 第2版