5時まで起きているつもり

なので、暇を潰す。金槌がキーボード、金床は

http://d.hatena.ne.jp/solidus_ray/20120224/1330097205


です。


僕が大袈裟に取り扱ってみたいのはジキル博士とハイド氏についての引用です。
元の記事は後で読むにとっておくとして、僕において、ジキル博士とハイド氏について書かれた文章は例外なく荒野のおおかみの以下の文章と紐付けされるのです。

彼はファウストのように、ただ一つの胸にとっては二つの魂はたくさんすぎて、胸を破裂さすに違いない、と思っている。だが、それどころか、二つの魂ではあまり少なすぎるのだ。

彼の生活は(すべての人の生活のように)本能とか精神とか、聖者と放蕩者とかいうような二つの極のあいだだけではなく、数千の、無数の極の組み合わせのあいだを、振り子のように揺れているのである。

「私たちはここでは名前を持たないのです。私たちはここでは個人ではありません。私は将棋指しです。あなたは人格の構成について教授をお望みですか」
「ええ、どうぞ」
「それじゃ、どうかあなたのこまを二、三ダース使わせてください」
「私のこまを……?」
「あなたのいわゆる人格がたくさんの姿に分裂するのをご覧になった、そのこまですよ。こまがなくては、私だって将棋はさせませんよ」

いつかはこの生命のこまの遊びをもっとよく演じるようになるだろう。笑うことをおぼえるだろう。


さて、この引用が必要なのかは、さておき。
例えばこういう見方に立つなら、アカウントの消去とはこまを遊びから追放することになりはしまいか。人間とおおかみが憎しみあったようになりはしまいか。ジキル博士とハイド氏が殺しあったようになりはしないか。それこそが面倒な仕事を忌避することに繋がるのではないか、と考えている。もちろん、全ての垢消しが該当するわけではなく、僕の口から言える言葉は限られている。


えー、というわけで、

モテてるやつの共通点って「自我の意識の範囲が広くて、ゆるやか」。○○くんと会ってる自分も自分、女の子といる自分も自分みたいな。モテなさそうなやつって異様に自我の範囲が狭くてかたくなで、要は、「自分の部屋にひとりでいるときの自分だけが自分」みたいな感じがある。

https://twitter.com/#!/daichi/status/171814162102620160
と、自分も消化出来ていない言葉を投げつけておくに留めておこうかと思います。
相手の都合も考えず投げつけた言葉がたまたま構えていたミットに収まる奇跡が無いわけでもないでしょう。