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参考→ソーシャルネットワークが描かなかったもの、浮かび上がらせたもの


伊藤計劃記録:第弐位相を読んだ。

伊藤計劃記録:第弐位相

伊藤計劃記録:第弐位相

毎度のことだけれど、胸が苦しくなる。
言葉に出来ない。


デヴィッド・フィンチャーの作品について、伊藤さんは幾つかの記事を残している。
この記事の趣旨は、伊藤さんの観点を、伊藤さんが観ることのなかった「ソーシャル・ネットワーク」に当てはめることである。

参考にするのは以下の記事である。
「ゾディアック」
ゾディアック(続き)


伊藤さんはフィンチャー監督の映画が描くモノについて以下のように語っている。

それは、世界精神(ヴェルト・ガイスト)に直面し、人生を捻じ曲げられ、それに抗うことかなわぬ人間たちの姿だ。

世界精神型の悪役とは何か。世界、とは我々の世界でもあり、また映画の説話全体でもある。そして映画を監督が支配する(ということにしておいてください)以上、世界精神型の悪役という言葉は、監督が創造した世界の代弁者もしくは映画そのものの演出家という審級を与えられることになる。映画そのものを演出する映画内キャラクター。つまりは映画内における監督のキャラクター化だ。

ある物事を主人公たちに見せつけることそのものを目的とし、その見せ付ける過程が映画になってゆく、そんな悪役を「世界精神型」と呼ぶ。

アメリカ映画でフィンチャーが例外的なのは、ひとえにこの「世界精神型」の悪を設定し続けるという点による。

伊藤さんによると、「ゾディアック」ではそんな”世界精神”の描かれ方が、それまでのフィンチャー映画とは異なるという。

この映画において世界意思は、ジョン・ドウさんやゲーム会社CRSさんや、我らがタイラー・ダーデンさんがそうであったような名指しできる存在ではない。「ゾディアック」に於ける世界精神はゾディアックさんではないのだ。それはとてもとてもちっぽけでへぼい人であろうゾディアックさんがきっかけになって拡散した「状況」であり「社会」だ。

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「世界」を前に、人間はいかにも小さい。世界が悪意として立ちふさがったとき、人間の人生はいともたやすく捻じ曲げられてゆく。フィンチャーはたぶん、これからも「世界」の圧倒的な悪意を前に見つめるしかない人間達を描くのだろう。


そして、「ソーシャル・ネットワーク」である。
映画をご覧になった方はお分かりいただけるだろう。
ソーシャル・ネットワーク」における世界精神はザッカーバーグが”きっかけになって拡散した「状況」であり「社会」だ”
そしてそれは”悪意”さえない、Facebookという表れ方をした、ただ巨大な才能であった。
だから、僕は伊藤さんの言葉をこう言いかえよう。
フィンチャーはたぶん、これからも圧倒的な「世界」を前に見つめるしかない人間達を描くのだろう。」

後記

伊藤さんの作品は、一応これで手元に全部揃ったことになるのだろうか。
棚一列にも満たない作品群ではあるが、僕には宝物に思える。
佐々木中「切り取れ、あの祈る手を」によると、”本とは繰り返し読むものだ”そうだ。
”自分の無意識にふっと触れてくる、そのさやかな兆しのみを縁にして選んだ本を繰り返し読むしかない”

僕にとって、伊藤さんの作品は”無意識にふっと触れてくる”ものばかりだった。
虐殺器官を、MGS4を、ハーモニーを、繰り返し、擦り切れるまで読もう。
ここでも計劃は続いている。