不条理と読書について

 グレーゴル・ザムザにとり憑かれている。眠って次の朝、目覚めるのが怖い、とかそういうのではない。
 不条理小説と呼ばれる「変身」「異邦人」だとかは、哲学の分野にも大きな影響を及ぼした。実存主義だとかに。”真理など存在しない、この世に許されぬ行為などない”とはアサシンクリードニーチェもそんなことをいってた。まぁサルトルあたりが正解なんだろうけれど分からない。
 とはいえ人間は真理やら法則や神話が存在しない世の中には耐えきれないらしく、一定の解釈を持ち込んでしまう。夜の後に朝がくるのは、過去何回も繰り返されただけで、明日の朝日が拝める保証はないにも関わらず。
 とまぁそういうのは読書中にもそういうもので。解釈を、文脈を、流れを勝手に作り上げる。そんで不条理によってその流れが途切れたり、澱んだりすると壁に本を叩きつけて、「二度と読むか!」と叫ぶ。その後結局読みきっちゃって、実は案外満足しちゃったりすると、その澱みに理論ぶち込んで、解釈をぶち上げる。聖書だって例外ではなく。
 そういうことまでしてやっと安心する。だから違う解釈だったり、それが通じない未だ不条理なものには恐怖する。その表れとしての攻撃だったり、その婉曲としての笑い、面白さ。シュール。
 とまぁ、そういう不条理をデーンと置いておいて、その前に立つ個人を試し、そいつに何らかの反応を促すことが芸術なり娯楽の役割であり、読書なりその他レクリエーションの役割なんだと思う。これは何?という疑問を抱かせること。できるならその答えもそっと置いておくこと。
 文脈が不条理によって破壊される現実。”努力は報われる”筋書きが怪我で駄目になり、”普通の大学を出て普通の会社に入って普通の家庭を……”が不況の煽りを受け、”エリート意識”は天才の前に敗れ去り、”借金を苦に無理心中”したのにそれ以上のヘソクリが有った。
 自分ではどうしようもない不条理がある。朝起きて虫になっていたら?夜が明けないとしたら?信仰の無い現代のヨブは?この不況の中、卒業したらどうすんの?
 そういう不条理に何か解釈を持ち込んだとして、文脈を見つけたとして、それはまた裏切られる。だから何度でも何度でも新しい道標を、いつかのための墓標を打ち立てなくてはいけない。今はそれができる。5年後も。10年後も。いつまでも?
 生きているかも分からない先、それでもまだ戦えるのかを考えてしまうのは苦痛だ。適当なところで逃げ出して、何かにすがって、静かに死ぬことができるのだろうか。