日記を読むこと。

ある人の日記を買って、それを読んでいる。彼についての知識はウィキペディアと彼の文庫本を一冊読んだきりである。

購入した理由も大したものでなく、日記が売っているという事態が物珍しかったというのとそれが初版であったからというものである。

そんな理由であったから、読もうと思って読んでもその歩みは亀みたいなものであった。何に注目して読んだものかまるで分からない。日記が出版されるというと、アンネの日記のことが思い出される。彼女の日記がこうも読まれているのは、大戦の悲劇に翻弄される普通の少女がそれでも明るく生きていこうという姿勢が多くの人の共感を誘うのだろう、と読んでもいないのに考えている。だから僕はきっと、もしアンネの日記を読むとしたら、普通の少女が大戦の悲劇に翻弄される物語としてそれを読むだろうと考えていた。一方でこの彼は、僕にとって得体のしれない人物で、他人の日記を読むというのはこんな感覚なのかと思うことが幾つもあった。

彼は草花について良く知っていて、日記には道端の花の名が何度も出てくる。出先ではその地に咲く花を観察してはその季節に故郷で咲く花のことを思ったりする。虫、特にハンミョウに詳しく、採集もしている。死んだ父親の出てくる夢をよく見る。弟との仲が良く書簡を何度も交わしている。僕は注釈でそのうち弟が彼より先に亡くなると知っていて、彼が弟を褒める書き方をするたびに心の中がザワザワする。奥さんは故郷に残してきている。この地には愛人がいて、偽名で何度も登場しているが二人の関係が実際にどういうものであったかは分からない、と注釈は語る。数多くの文化人と親交があり、僕も知っている画家や文学者の名前がなんどか出てきて何がしかの言葉を残していく。ボスの思想、行動について偽名で罵り、それにより思索を深めていく。僕は自分のつけている日記を読み返し、内容の薄さに愕然とする。壁に叩きつけたくなる気持ちも湧いたけれど、行動にはうつさない。

日記は、読む人間の期待を裏切る書物だと思う。おそらくアンネの日記を読んでも、そこにはただ明るい少女がいるわけではない。多くの偶然、日々暮らすなかで思うこと、思いたいこと。暗く悩む女の子や彼女の実は意地汚い性質や、それでも明るく振舞おうとする姿勢が書かれていて、僕らの予想を裏切るだろう。日記を読むとは、物語や評論文以上に自分の中に書き手の像を結ぶ行為だ。知己の仲である誰かの日記を読むことがあったら、思い出の意味は変わってしまうだろう。自分の日記を読み返せばそこに書いた以上のものが読み取れるだろう。予想外に何気ないものが、自分の中で大きな位置を占めていることに気付くだろう。日記を書くとは読み返したときの変革を孕んでいるのだ。